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今日から夏休み
2004/08/10(Tue) 00:00:00

  

[テロについての思案]
 街でアラブ系の男性に道を尋ねられて親切に案内したら、「特別に貴方だけにいいことを教えてあげる」と前置きし、「渋谷で近いうちにテロを実行する」。 最近、人伝手に耳に入ってきた会話である。本当だろうか? 日本が標的になっていること自体は異論のないところだ。だが、安易に極秘の情報を自ら漏洩させてしまうほど、テロリストは無垢なものだろうか。情報の真贋はともかくとして、市民の立場としてテロに備えて生きることはとても難しいことである。テロに限らず、死は予告もなくやってくる可能性がある。幸いなことに、それがいつかは分からないために人は楽観的に過ごすことができる。だが、心のどこかで自分の死をシミュレイトしつつ、自分の人生を設計しているものだ。僕自身は、自分の人生は短いものと仮定している。それは、かつて事故で九死に一生を受けたことが2度あり、そのお陰で急かされるように、自分に課題を与えて解決に取組み、そして社会に自分の記しを残すように努めてきた。
 ところで、何かを創るという行為には、壊すという行為も前提として含まれている。壊す対象は、考え方や因習などの非物理的な実体である。創る-壊す、この振幅値の大きさこそが、アートやデザインの社会的評価の目安となりやすい。
 テロの伝言を間接的に聞いたことを契機に、テロとクリエイティヴの成果は遠からず近からずどこかで繋がっているのではないかと、動物的な勘が感知した。警察と暴力団のような表裏関係らしきもの、そんなことを考えたとでもいうか。テロの回数と規模に比例して、世界的なアートのマーケットも拡大しているのではないかという懸念が頭によぎったのである。もし、渋谷でテロが実行されれば、日本にも本格的なアートマーケットが誕生する契機になるのかも知れない。だが、それはあってはならないことだ。


ララに入居して思ったことなど
2004/08/09(Mon) 00:00:00

入居して数日が経過している。ご近所に挨拶に行くべきかどうかしばらく考えてから、挨拶はしないことに決める。
十数年前に上京してきた際に、隣室への挨拶をどうすべきかしばらく考えたことを思い出した。挨拶に伺った隣人たちの対応は、「面倒だからお互いに面識のない関係でいましょう。だから今の挨拶はなかったことに...」そのときに初めて、僕は都会の感覚を経験する。この体験から、このララシティーの隣人にも挨拶しないでおくことを選んでしまったように思う。ここでネットについて思いを巡らせる。ネットは、都会的なものをムラ化することで人の心の隙間を埋めているのではないだろうか。僕が日常で孤独を感じたら、ララシティーを積極的に歩きまわって、そのことを確かめてみたい。ここに入居して、そんなことをふと考えてしまった。

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